どうした!? 三谷幸喜センセ!
という悲鳴が聞こえてきそうなほど、視聴率の面で苦戦を強いられてしまっているフジテレビ系水10ドラマ、『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』、通称・『もしがく』。
この長いタイトルからして、THE三谷幸喜作品であることが一目瞭然。
しかも民放の連ドラの脚本を手がけるのは実に25年ぶりとあって、三谷センセもフジテレビもかな~りリキ入れて作り込んでいるのが非常によくわかる作品なんです。
そして、僕個人としても、非常にエキサイティングな時代設定で、ストーリーにもグイグイと引き込まれる、う~ん、もうなんていうか、三谷ワールド全開なドラマなんですけどね。
…残念ながら、お茶の間的には正直、まるでウケていないのが数字に出ちゃっている状況です。
視聴率は初回が5.4%で、そこからどんどん下降の一途を辿り、11月26日に放送された第9話では、世帯2.8%、個人1.6%(ビデオリサーチ調べ)。
これはもう、失敗作と言わざるを得ない事態にハマっちゃってます。
一体全体、どうしちゃったのか。
物語はいよいよ最終章へと向かうのに、こんなことでは浮かばれないので、僕は、何がなんでもこの作品を楽しみたいと思います。
なので今回は、どうすれば視聴率なぞ気にせずにこのドラマを最後まで楽しめるか、あれやこれやと考えてみようと思います。
「ながら見」出来ないから取っ付きづらいなんて…
この大スベりについては、もうすでに色々な批評が出ています。
「ストーリー運びのテンポ感が今の時代に合わない」とか
「登場人物が多過ぎてキャラクター設定がよくわからない」とか
「カット割が映画的すぎる」とか
「何よりも画面が暗い」とか…
もう言い出したら止まらないダメ出しの数々。
挙げ句の果てには、
「しっかり作り込まれているので、ながら見ができない」
なんて、わけのわからない声もありました。

コアな昭和の空気感はお嫌いですか?
でも僕は思うんです。
このドラマの時代設定は1984年、昭和末期です。
この時代に発布された、風営法の大幅改正という、時代の波を受けての性風俗の転換期と、当時の小劇場ブームというサブカルチャーを代表するムーヴメントがぶつかり合うようにして融合したのがこのドラマの全体を包むムードです。
だからそこには、そんなムードならではのテンポというものがあった。
そしてそこでうごめく様々なキャラクターが雑多に入り混じり織りなされるドロドロとした人間模様があった。
さらに、その世界観に合った照明感、つまり小劇場やストリップ小屋の独特な明るさ…というか暗さがあったんです。

僭越ながら、僕もその時代の渋谷や、新宿・下北沢などの小劇場に足繁く通っていた学生でありました。
だから、このドラマのテンポ感やちょっと妖しげな暗さは、あの時代の匂いまでをも思い出させる感じがするんですよね。
だから、そういう空気感のようなものを否定されると、
「な~にが昭和ブームだ」
とさえ思っちゃいますね。
みなさん、こういうコアな昭和には目を背けてしまうのでしょうか。
「世界の蜷川」まで引っ張り出して、最終章はどこへ向かう?
そんなわけで、このドラマ、1980年代前半から半ば頃のアングラ、サブカルといった文化に馴染みのない現代の若い世代にとっては、同じ昭和カルチャーだと言われてもピンとこないのかもしれません。
12月10日放送の第10回においては、「あの」巨匠・蜷川幸雄(小栗旬)が久部三成(菅田将暉)と対面するという、当時の演劇ファンなら心臓バクバクしてしまうようなシーンが用意されていますが、こういった満を持しての大仕掛けも、カルチャーセンスがなければ「誰ですか?」で終わってしまうだけなのかもしれません。

もっとも、久部は蜷川に傾倒するあまり、これまで何度も演出したり激昂するシーンで、蜷川幸雄の代名詞である「灰皿投げ」をしそうになる場面が出てきているんですけどね。
ついでに言ってしまえば、蜷川幸雄役を小栗旬がやっている、というのもツッコミどころなんですが、その辺がどれくらいウィットに富んだジョークだとわかってもらえるのか、その辺りもなんとなく歯痒いところではありますね。
ともあれ、蜷川幸雄に大絶賛され、激励されて有頂天になった久部は、この先どうなってしまうんでしょうね。
彼のキャラクターを考えると、大いにハラハラしてしまうところです。
散りばめられた人間模様が、どのように収束するかに注目
ここまで、なんだかんだ言ってはきましたが、やはり僕は個人的に、このドラマは最後まで見届けたい気持ちでここまで楽しんできました。
視聴率が悪いとか、今時じゃないとか言われても、僕はやっぱり毎回ワクワクしながら観ています。
自分にふさわしい題材は何かと考えた時に、時代劇や歴史劇としての1980年代を書くのであれば、僕にしかできないと思い、そこからこの物語が始まリました。
(三谷幸喜;『もしも世界が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』公式HPより引用)

…とされる新人放送作家・蓬莱省吾
そう、このドラマは歴史劇なんですよね。
昭和の終わりの、大きな節目の時代のコアな風景を切り取って、そこにシェイクスピアという劇作家のスパイスを振ってふるいにかけたような、そんな「謎の粉」がかかったドラマなんだと思います。
実はキャラクター設定は、まずシェイクスピアありきなんです。登場人物それぞれが、シェイクスピアの作品に登場するいろんなキャラクターのモチーフを背負った設定にしています。
(三谷幸喜;『もしも世界が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』公式HPより引用)
だから、このドラマは、シェイクスピアなんて知らなくても、ちゃんと勝手にシェイクスピアに向かって走っているんだと思っていいのだと思うんです。
物語も最終章へと向かいます。
突然現れた蜷川幸雄が久部と劇団に何をもたらすのか、久部とリカ(二階堂ふみ)の恋の行方、WS劇場の行く末はどうなるのか、三谷幸喜さん自身がモデルになっている新人作家・蓬莱省吾(神木隆之介)もこのままでは終わりそうにないし、八分坂神社の巫女・樹里(浜辺美波)の久部への想いはどうなってしまうのかだって気になります。

しかし、そのすべてのキーワードとなるのが、実はこの長ったらしいドラマタイトルなんだそうです。
これもシェイクスピアのセリフの一つから考えました。物語の後半、ある登場人物がこのセリフを発するんです。そこは、タイトルの伏線回収みたいに、そこへ向かって物語が集約していくイメージです。
(三谷幸喜;『もしも世界が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』公式HPより引用)
第10話で、いよいよそのセリフが飛び出すようです。
一体どんな状況下で、誰から、このセリフが発せられるのか、それを見届けるだけでも、このドラマを見る価値があると思うんですが、いかがなもんでしょう。
まっ、ともあれ僕は、また1話からこの話をFODで見直して、最終章に臨もうと思います。
もしかしたら、僕の人生の「楽屋」がどこにあるか、見つかるかもしれないから。
※本項の挿入画像は、全て『もしがく』公式HPからの引用です。

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